2009年04月30日
曾我蕭白
4月5日に放送されたNHK教育「日曜美術館」の
「曾我蕭白あくなき破壊への挑戦~ゲスト村上隆」
を見て衝撃を受けた話です。
ゲスト解説者の「村上隆」はアニメやフィギュアなど
のサブカルチャーであるオタク系の題材を用いた作品が
有名で、現代日本で最も国際的に評価されているアーチスト。
ルイ・ヴィトンの依頼で鞄をデザインしたあの人・・・
といえば思い出す人も多いはずです。
実をいうと氏は元々日本画出身で、その作品にも
浮世絵など日本画の影響を受けています。
この番組の中で村上隆は「曾我蕭白」を3本の指に
入るほど好きな画家であるといってます。
また番組では当時の京で流行した「狂」の思想
と「曾我蕭白」をからめて人と作品を紹介していました。
江戸中期の異端の絵師「曾我蕭白(そが しょうはく)」(1730〜1781)。
(群仙図屏風)
日本画の歴史において、メインストリームを外れた
「異端」の画家が近年再評価されていますが、
そのなかでも「狂」の絵師「曾我蕭白」は
墨の濃淡を熟知し、高度な筆の技術を駆使し
細密で精確な描写をするといった反面、
顔料の性質を熟知した鮮やかな極彩色と
大胆で型破りな空間把握の構図によって
強烈な不安定さを生み出し、
あえて伝統的なモチーフを醜悪に描き出し、
見るものを魅了したかと思えば、神経を逆なでし、
カオスへと落とし入れる・・・・
といった当時としては破壊的な表現を続けた絵師です。
精緻な写生で名を上げ、一大流派を作った同時代の円山応挙
について、「画を望むなら自分に。図を求めるのなら応挙に。」
と蕭白は言ったそうです。
すなわち、作品に自分自身を投影する蕭白にとって、
記録のような作品を絵として認めることはできなかった
のではなかろうかと思われるのです。
実を言うと、曾我蕭白は本姓は三浦氏なのですが、
なぜ曾我を名乗るようになったかは定かでありません。
曾我派は室町時代の代表的な画系で、なかでも曾我蛇足の作風は、
奇矯な作風といわれていました。そこから曾我と名乗ったのかもしれません。
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・・・んー、なんか、日頃考えていたことに対して
なぜか答えを見つけたような、そんな気がする(勘違い。)
ちなみに私アゴスの名前は「曽我浩徳」です。
同じ曽我だし(蕭白の本名は三浦です。)・・・・??
・・まてよ、これは社会心理学用語でいうところの「確証バイアス」
(先入観に基づいて物事を見て、自分に都合のいい情報だけを
集めて、それにより自己の先入観を補強していくいう現象。)
・・・なのかもしれないぞ。
これは恋愛や宗教、身近な例では占いなどに多く見られます。
(もちろん、すべてがそうとは限らない。)
もし、曾我蕭白じゃなくて三浦蕭白だったら、こんなのスルーだったかもしれない。
村上隆の名前が出なかったら、気にも留めてなかったかもしれない。
よく見ないで信者になってしまい、自分自身の頭で考えるのを
放棄してはならないのではないかとおもうのです。
とりあえず、いつか、一度本物を見てみたいと思います。
そして自分の頭で考えてみようとおもう。
そうしなければいつまでたってもこんなの机上の空論。
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きわめて個人的でつまらない内容のエントリーですので、
なるべくスルーしてください。(ほんとうに。)
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